令和六年の幕開け

 令和になって六番目の年が明けた。
明けた途端に私の長年の友人である 能美定久氏 の訃報が飛び込んできた。
彼は島根県鹿足郡吉賀町にある指月神社の宮司で(とは言っても近年は娘さんにその座を譲って本人は隠居の身として暮らしていたらしい)私の小学校以来の友人であった。 
 彼は
高校の時に家庭の事情で隣県である山口県の高校に入学したので、私とは違う高校に通うことになり私との関係は一時的に疎遠になった。
 が、偶然の出会いをきっかけに私たちの関係が復活したのは、高校卒業後であり、それも本当に思いがけない東京の渋谷の酒場での出会いだった。大学生活を朝日新聞奨学生として過ごしていた私は、1969年の入学当時、横浜の関東学院大学に通っていたのだが、例の大学紛争の洗礼をモロに受ける事になり、一つの単位を取ることもなく最終的に
「学費滞納」を理由に数年で大学を除籍にもなった。
 その頃の私はとにかく
生活のためのアルバイトに明け暮れる毎日で、大学生活を謳歌する様な余裕も暇もなかったのだが、同じ学年の中島幸一郎という親友の彼女が当時恵比寿にあったヤマハ音楽振興会でアルバイトをしていて、その縁で深く音楽に触れる様になり、同じ関東学院同級生の「純ペイ」こと大橋純子(2023年没)や『大橋純子&美乃家セントラル・ステイション』のメンバーで後に純ペイと結婚するちゃんケン」こと、佐藤健氏などとも仲良くなり、その関係で渋谷にあったロックミュージックがガンガン流れる「グランドファーザーズ(http://grandfather.jp/shibuya/)」に入り浸る様になった。最終的にはちゃんケンの紹介で私も中目黒にあった「パンチョ」というサパー・クラブで弾き語りの仕事を行う様になり、音楽にドップリとのめり込む事になるのだがその辺りの話は又に譲る事にして、閑話休題。そのグランドファーザーズ(通称=グラファン)のカウンター内でバーテンのバイトをしていたのが東京の坊さん大学に通っていた能美だったという訳だ。

 その後、彼は田舎に戻ってお父さんの後を継いで「指月神社」の宮司となり、同時並行で広島に「オゾン」という建築デザイン会社を作った。